八月二十二日

 けんちん汁を作る時、たくさん仕込んだ方が美味しいとかそんなことに似ている気がする。

パンの仕込みも多い方が上手くいくし、パンの種もそう。菌たちが色々と共有して生命活動するのには、もしかしたら適度な量というのが存在するのかもしれないな。

パン作りをやっていると目には見えないけれど、本当にそれはそうなんだと感じることがたくさんあって、薪窯になってシンプルにパン作りをするようになってからそれは原理や真理みたいに感じる事が多い。

窯の大きさに対して入れるパンの量でも出来上がりは変わってくる。できれば窯の3分の2くらいはパンで埋めたい。パンから出る水分や窯の蓄熱の消費や、そんなことが絶妙に絡み合っていて、無限の組み合わせの中で焼かれるパン。

そんなパンの表情はやっぱりたくさん入れた時の方が穏やかに見えちゃって。。。

不思議だなぁ。


人間も一人で出来ることにはものすごく限界があるのを大人になればなるほど身に染みてくる。

身体の自由。身体の可動範囲。
そんな事が嫌でもわかってしまうようになって、歳だなぁ…とは言葉にしたくないけれど、あの溢れるようなパワーは今はしっとり落ち着いてる。

人間も菌もやっぱり一匹ではどうしたってうまく生きることができないものなんだな。

誰かと誰かの 何かと何かの支えがあって
やりとりがあって、刺激があって、愛があって。

兎にも角にも、人間こそ一人で生きるなんて難しい生き物で。
つながりの中に穏やかに健やかに発酵する生き物かもしれない。


庭で小さな子供のカマキリに出会う度
その姿に胸がくるしくなるほどすごいなぁって感動する。
生まれて直ぐに自然に一人で放り込まれて、目に見ぬ世界を渡り歩くのだもの。

振り上げるカマもそれは高くなっちゃうし。
振り上げることも知らずに固まってしまうこともある。

そういう人間の方は一人立ちするために知恵や行動力をたくさん世界に学ばなければならなくって。それにはとても時間がかかって
あれ…と、生きることに向き合わず通りすぎてしまうことがあったり
自分のことをあまりわからず世界に揉まれていたり、生きる力を当たり前のように見過ごしてしまうこともある。


選んで、開拓した 
出会って、生み出した 
閃いて、落とし込んだ
そんなスペシャルなこの世界なのに。

小さなカマを振り上げて一生懸命生きるに向き合うカマキリに、何かをそっと教わるような気がしました。



と、パンから全く外れてしまった、、、!

今日の午後。これから茗荷をとりに庭へ。まもなくパンも再開します。9月からのパンも窯も楽しみです。窯にもパンの菌たちにも良き容量をば。たくさんの世界がパンとなってお届けできますように。